たいへんご無沙汰してしまいました。知れば知るほど険しく曲がりくねっていく色男への道のりに、すっかりヘタレてしまった村上龍之介でございます。
ここまでの研究は、実在の色男を取り上げてきました。ですが、これからご紹介するのは完全に架空の色男でございます。「架空の人物なんて参考にならないんじゃないの?」と思われる向きもあるかもしれませんが、そんなことはございません。そこにはある種の真実が隠されているものと考えます。
前回、紹介した在原業平は実在の人物でしたが、エピソード自体は創作の要素も多く盛り込まれております。そうした創作部分にこそ、作者が表現したかった色男のエッセンスが残っていたのではないでしょうか? むしろ現実に縛られない分、より純粋なエッセンスであるとも言えるでしょう。
ならば他の創作物、それも多くの鑑賞者の眼に耐えたマスターピースに登場する色男は、実在の色男以上に色男純度が高いはずです。そこで今回と次回は、わが国の古今の傑作から2人の色男に登場願いましょう。
今回は、「古」の部。江戸時代、井原西鶴によって書かれた『好色一代男』の主人公・世之介を研究します。
『好色一代男』は、主人公・世之介の性愛に満ち満ちた7歳から60歳までの人生を、1年につき1話で描いた娯楽小説です。合計54話というのは『源氏物語』の54帖に通じ、ある男の恋多き生涯を追うという体裁は『伊勢物語』に通じます。つまり世之介とは、日本色男界の両巨頭、光源氏と在原業平のエッセンスを受け継いでいる存在なのです。「足して2で割った」というよりも、「足してから半分になるまで煮詰めた」というほど濃い感じる世之介のエッセンスは、もはや「業」と呼ぶにふさわしいものでしょう。
京に生まれた世之介は、遊び人であり大金持ちであった伊達男を父に、島原遊郭の太夫(最高位の遊女)を母に持つ、色事界のサラブレッド、まさにナチュラル・ボーン・色男(生まれながらの色男)でした。7歳のときには御付の腰元を口説き、8歳の時には近所の坊主に恋文を代筆させ、9歳で女中の行水をのぞいて夜這いをかけ、10歳で男色にも興味を示し、11歳で郭に出入りして遊女を身請けする、そんな幼年期をすごします。なにが「幼年」かと言いたくなるほどの早熟ぶりです。
16歳になって元服しても落ち着くどころか、色好みは盛んになるばかり、プロアマを問わず、未婚既婚を問わず、そして男女を問わず、関係を持ちかけ快楽をむさぼり続けるのです。いくら色事に通じた両親でも、このあまりの放蕩ぶりには堪忍袋の緒も切れて、監視をつけての江戸へ修行に出すのですが、女性を渡り歩く色男たるもの、自由を愛するのは必須のたしなみ。当然のようにその道中、世之介は監視から逃げだすのです。
思うがままに女人と交わり、起請文(神仏に誓う契約書)を乱発して愛を誓いまくり、自由を謳歌する世之介。しかし自堕落な自由の果てに安定はありません。江戸に着いたころには、一文無しの状態になっていて、本来の修行先だった江戸の商家の世話になるしかありませんでした。しかし、そこでも修行などせず、金をくすねて遊び三昧。ついには勘当の憂き目にあってしまいます。反省するふりをしに寺に入ってもがまんができるはずもなく、またまた脱走。耳かき職人や、謡うたいや、偽神職や、パトロンの世話になったりしながら、九州から東北まで全国を放浪。もちろんその間も色事を忘れることなどありません。
あるときは人妻に手を出そうとして夫に見つかり、あわてて逃げているところを今度は役人に見つかり「怪しいやつだ」と牢に入れられてしまいますが、そこでも別の牢にいた女囚を口説きはじめる始末。ともに釈放されると、「追っ手がいるので迷惑をかける」というその女囚を「大丈夫。一緒にやり直そう」と説き伏せておきながら、賊から守りきれずに死なせてしまったりといった辛い思いもします。
30歳の時には、これまで世之介のいい加減な起請文に騙されて人生をめちゃくちゃに去れた女性たちの怨霊の群れに襲われ、自らの行いを悔い改めるのですが、その反省が続くようではナチュラル・ボーン・色男とは言えません。あくなき色事への欲求は、すぐにむくむくと鎌首をもたげてくるのです。
「いずれは太夫と交わりたい」という野望を抱いて遊郭に出入りをしても、パトロンの取り巻きという身分ではそれもかなわず、いっそ色事の道を諦めようと思ったこともありました。そのときは、色に溺れた末に仏道に入ったというありがたいお坊さんをたずねるたびに出るのですが、例によってその道中で性欲に負けてしまうわけです。
ほとほと自分にあきれる旅先の世之介に、父の死という悲報が届きます。涙に暮れて実家に戻った世之介を待っていたのは莫大な遺産でした。その金を世のため人のために使えば感動的なエンディングですが、そうはならないのが好色一代男。世之介はその金で念願の太夫をものにするのです。太夫を身請けし正妻にしたのちも、世之介は全国各地の郭を渡り歩き、ついには色道を極めた「粋人」と称されるほどに登り詰めます。
生涯に交わった男女の数は「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」。色事界のサラブレッドとして生まれ、色事界の頂点を極めた世之介は、究極の色男といっても過言ではないでしょう。
問題は、「果たしてこれは羨むべきものなのか?」ということです。
タイトルの内にある『一代男』とは、「跡継ぎを残さない男」という意味です。家督を大事にした江戸時代において、これは反社会的とも言える行動です。世之介は、色事の道を進むにあたり、とてつもなく大きな犠牲を払わざるをえなかったのです。
また『好色一代男』のエンディングは、女だらけ島「女護が島」を目指して、世之介が仲間とともに船出するというものです。一見派手なハッピーエンドに見えますが、女護が島でのエピソードは一切描かれないのです。それどころか船そのものが、「行方しれずに成にけり」なのです。なにやら破滅的なニオイを感じざるを得ません。船に、精力剤、媚薬、張形など、ありとあらゆる色事関連グッズを満載しているにいたっては、ちょっとした狂気すら漂います。
本稿でご紹介したとおり、自らの本能の赴くままに放蕩の限りを尽くし、あらゆる性愛を求め続けた当の世之介自身ですら、時にはふと立ち止まって、己の行状を絶望的に俯瞰してしまっています。でも、その絶望を振り払うように、前に進んでいく。それは自分の意思を超えてしまったもの、それこそ深い業としか思えないのです。
私には、全編を通じて世之介がこのように叫んでいるように思えてなりません。
【世之介師匠の教え】
色男はなろうと思ってなるもんじゃない。勝手になっちまうものだ。俺だってなりたかったかどうか分かりゃしねえよ。でも、そう生まれちまったんだから、そう生きるしかなかったんだよ。
(つづく) |